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特設ページ

対馬の歴史

柳川一件 〜幕府を震撼させた国書偽造事件〜

 李氏朝鮮が対馬藩の要請に応じて通信使を派遣するにあたり、いくつかの条件が提示されました。戦で捕虜となった朝鮮人の帰国、朝鮮王の墳墓を暴いた犯人の送還、家康が先に国書を通じること、などです。1390名の捕虜の帰国は実現したものの、残りふたつの実現は難しく、苦慮した対馬藩は、対馬の罪人を犯人に仕立て上げて朝鮮に送り、さらには家康の国書を偽造するというギリギリの外交交渉を行います。そして、以前から繰り返されていたこの偽造行為が、対馬藩のお家騒動を発端として露見し、徳川3代将軍家光を巻き込んだ外交事件へと発展してしまいます。
 偽造事件を暴露したのは、対馬藩の重臣・柳川調興(やながわしげおき)でした。朝鮮との外交交渉で辣腕をふるった柳川調信(しげのぶ)を父に持ち、幕閣や宗家内部にも支持者の多かった調興は、主家である宗義成(そうよしなり)と対立し、宗家の極秘事項であった国書の改ざんを暴露、宗家の追放をもくろみます。事件は幕府を揺るがす外交事件に発展し、諸大名の並ぶ江戸城大広間で家光直々の親裁が下され、宗義成は無罪、柳川調興は津軽へ流罪となりました。

朝鮮貿易 〜対馬の黄金時代〜

 江戸元禄、宗義真(そう よしざね)の治世は対馬の黄金時代でした。朝鮮貿易によって生み出された莫大な利益をもとに、大船越瀬戸の堀切、お船江(藩船のドッグ)の築造、阿須川の掘削など大規模な公共事業が行われました。儒学者・雨森芳洲を招聘し、日本最初の小学校が設置されたのもこの時代です。朝鮮からの輸入品は生糸・朝鮮人参、日本からの輸出品は銀などでした。朝鮮人参は万能薬として珍重され、生糸は京都で西陣織に加工された後、大阪や江戸の富裕な商人層によって消費されました。朝鮮貿易がもたらした莫大な富により、対馬藩は西の長者と称えられました。
 厳原町国分の万松院は宗家の菩提寺であり、歴代藩主の巨大な墓石が立ち並び、また、朝鮮国王から贈られた銅製の三具足や、徳川幕府から贈られた歴代将軍の遺影等が安置されています。万松院の歴代藩主の墓石のうち宗義成・宗善真のものが最大で、以降、墓石の規模は徐々に小さくなっていきます。それは、朝鮮貿易の盛衰による対馬藩の財政力の変動をそのまま反映しているかのようです。

雨森芳洲 〜元禄の国際人〜

 1990年、韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領が来日した際の国会演説で、江戸時代の儒学者・雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)が話題にのぼりました。日本でも忘れられていた芳洲が脚光を浴び、その外交思想や姿勢に注目が集まることになったのです。
 雨森芳洲(1668〜1755)は、高月村(現滋賀県伊香郡高月町雨森)で誕生したと言われています。医者であった父の跡を継いで医者を志しますが、やがて儒学に転じ、木下順庵の門下生として頭角を現します。22歳の時に、順庵の推薦により日朝外交の窓口であった対馬藩に仕官し、26歳で対馬に赴任。35歳の時に朝鮮に渡って朝鮮の地理・歴史・言語を学び、朝鮮側の日本語辞書の編集に携わり、自らも朝鮮語の入門書を作成します。徳川家宣と徳川吉宗の就任祝いの朝鮮通信使に随行して対馬〜江戸を往復し、日朝の外交交渉に尽力しました。また、藩内での人材育成の必要性を説き、通訳養成制度の確立に貢献し、私塾を開いて多くの子弟を育てました。晩年は、教育に情熱を捧げる一方、和歌1万首を作成するなど、政治・外交・教育・学問・芸術など多方面にわたって活躍しました。享年88歳、厳原町長寿院に眠ります。

 芳洲は、朝鮮に渡って言語と諸事を学んだ経験もあり、互いの習慣や文化について学び尊重することが善隣外交を維持する道だとして、「誠心交隣(互いに欺かず争わず、真実を以ての交わり)」を外交の基本思想としました。 筆談が主な交渉手段だった時代に音(会話)を学ぶ新進性と柔軟性をもつ一方、外交政策に関して同門である新井白石と激しい論争を繰り広げるなど、剛毅で実直な面もあわせ持っていました。
 「篤実の儒学者」雨森芳洲の先進的な国際感覚と思想は、現代の日朝関係、外国との関係においても十分通用するものとしてあらためて注目を集めています。

陶山訥庵 〜島の自立を願った対馬聖人

 陶山訥庵(すやまとつあん。1657〜1732)は雨森芳洲と同じく木下順庵の門下生であり、主に農政で活躍した儒学者です。島内ではイノシシ退治の偉業で有名ですが、この事業の背景にはもっと深い意図があったようです。当時、対馬藩による朝鮮貿易は斜陽の時期を迎え、藩の財政は破綻しかけていました。訥庵は、貿易による浮利ではなく、農業による対馬の自立を計画していたのです。
 そのためにはまず、農作物を食い荒らし、農民の生産意欲を削いでいたイノシシを根絶する必要がありました。生類哀れみの令が発せられていた時代でもあり、農民たちは深山聖域へ踏みこみ殺生を行うことを恐れましたが、訥庵は持ち前の粘りと説得によって偉業を達成しました。
 対馬を九つの区画に区切り、柵を作り、農民に銃の扱い方を教え、冬場の農閑期を利用してイノシシを一区画ずつ殲滅していく方法により、9年後には対馬からイノシシが姿を消しました。狩られたイノシシは8万頭、動員された農民はのべ23万人にのぼります。
 さらに訥庵は、農民による島土防衛構想を持っていました。泰平の世に生きる島内の武士だけでこの広い島を守ることは不可能であるため、島内で銃を生産し、訓練された農民が対馬の深い山を利用してゲリラ作戦を行うしかない、と訥庵は考えていたようです。軍事訓練だけ行うと、謀反の疑いをかけられ、藩が取り潰されるおそれがあるため、イノシシ退治を隠れみのとして利用したのです。
 死後しばらくは評価の定まらなかった訥庵ですが、次第に島人の尊崇を集めるようになり、対馬聖人として称えられるようになりました。
 写真は、佐護の農民たちが訥庵に感謝して建てた遺愛の碑です。碑銘は、訥庵の友人である雨森東五郎(芳洲)によるもの。

「国の事 能く知る人のなかりせば などか建てなんこの碑を」

 >>対馬野生生物保護センター季刊誌「とらやまの森」第3号

孝行芋の来た道

 1605年、野國 總管によって中国福建省から琉球にサツマイモが持ち込まれました。サツマイモはやがて、薩摩・長崎・関東などで広く栽培されるようになり、飢饉の際に多くの人々を救うことになります。上県町久原(くばら)の農家の次男である原田三郎右衛門は、少年時代に厳原で陶山訥庵の教えを聞いて感銘を受け、苦労して海を渡り、薩摩(鹿児島)に侵入し、藩外持ち出し禁止の種芋を対馬に持ち帰った、と伝えられています。サツマイモは山がちで耕地の少ない対馬の食糧事情を大きく改善させ、コウコイモ(孝行芋)と呼ばれるようになり、さらに朝鮮に渡ってコグマ(孝行芋の発音がなまったもの)と呼ばれるようになります。対馬では、この孝行芋を発酵させ、デンプンを取り出し、団子状に固めた独自の保存食「センダンゴ」が生み出され、センダンゴを麺状に伸ばして、すまし汁でいただく麺料理が郷土料理「ろくべえ汁」です。

対馬藩の斜陽 〜徳川吉宗以降〜

 江戸元禄時代、朝鮮人参や生糸の中継貿易は対馬藩に巨額の富をもたらし、対馬藩は西の長者と称えられました。その貿易景気も、やがて斜陽の時代を迎えることになります。
 オランダや朝鮮との貿易は、輸入品に支払う代価として日本国内の金・銀を使用しており、その結果、開幕からの100年の間に、国内の金の4分の1、銀にいたっては4分の3が国外に流出してしまったのです。江戸時代の政治家・学者の新井白石は、国外への金・銀の流出に歯止めをかけるため、輸入品の国内生産を計画し、貿易に規制をかけました。また、徳川8代将軍吉宗によって朝鮮人参や生糸の国内生産が行われるようになり、以降、対馬藩の貿易額は低下の一途を辿ることになります。
 対馬藩は収入源を失って財政難に陥り、幕府への借財を重ね、あげくの果てには畿内への国替えを申し出るありさまでした。

幕末 〜勝井騒動〜

 江戸末、諸外国の船が日本近海に出没し、鎖国を続けていた日本が外国の圧力にさらされるようになると、国内の各藩は佐幕(江戸幕府支持)か勤皇(幕府を倒して天皇親政)かで大きく揺れました。対馬も例外ではなく、1861年にロシア船ポサドニック号が芋崎へ駐留して数々の狼藉をはたらいたことを契機に尊皇攘夷の声が高まりました。対馬藩は、佐幕派と勤皇派に分かれて争い、やがて血なまぐさい事件に発展していきます。
 まず、藩主・宗義達の叔父で佐幕派の勝井五八郎がクーデターを起こし、勤皇派100名を粛清。これに対して、勤皇派の平田大江が尽義隊を結成して抵抗。どちらの派閥を支援するか迫られた宗義達は、まず勝井を殺害し、さらに平田をも殺害し、事件を決着させます。この一連の騒動を勝井騒動といい、200名以上が犠牲になりました。事件は一応の決着をみたものの、対馬藩は多くの有能の士を失ったまま明治を迎えることになりました。

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