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対馬(つしま)の観光と物産のポータルサイト 雄大な自然と、永遠の神秘が息づく島
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対馬の要塞化 〜道路と橋と要塞〜 対馬海峡の防備や朝鮮半島の戦略防衛基地として重要視されていた対馬では、1887年(明治20年)ころから要塞の整備が始まりました。美津島町の竹敷に海軍要港部が置かれ、日露戦争間近の1900年、朝鮮海峡と対馬海峡の間を戦艦を通すため、万関瀬戸が開削されました。1905年には、日本の太平洋艦隊が、対馬沖を北上するロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日露戦争の帰趨を決することとなります。日本では日本海海戦と呼ばれるこの戦いは、世界では対馬海戦(Battle of Tsushima)と呼ばれています。 第2次世界大戦 〜プサンの対馬人〜 19世紀末の李氏朝鮮は、国内の権力抗争が激化し、それに李朝の宗主国である清、南下政策をとるロシア、朝鮮半島を国防の拠点の一つと考える日本の勢力が絡み合う複雑な政治情勢でした。やがて、日清戦争・日露戦争に勝利した日本が朝鮮半島の保護国化を押し進め、1909年、日韓併合に反対していた元老・伊藤博文が朝鮮人青年・安重根によって暗殺されると、日韓併合に反対できる政治家がいなくなり、また初代首相である伊藤が暗殺されたことで国内世論も韓国併合に大きく傾き、翌年には朝鮮半島の併合が行われました。1945年の終戦まで、朝鮮半島は日本の統治下に置かれることになります。 珠丸の悲劇
第二次大戦が終結した1945年の10月14日、対馬海峡でひとつの悲劇が起きました。大戦中の銃爆撃や機雷の難を奇跡的に逃れ続けていた九州郵船の旅客船・珠丸(たままる。800トン。釜山〜対馬〜博多経路)が触雷・沈没し、545名を超える尊い人命が失われたのです。10月14日は連合軍による渡航差し止めが初めて解かれた日であり、珠丸には朝鮮半島・大陸からの引揚者・復員軍人等がひしめいていました。名簿には730名の乗船者が記録されていますが、帰国を急ぐあまり切符を持たない割り込み乗船者も多く、現在でも正確な人数はわかっていません。当時の日本海峡には、旧日本軍によって数千個の機雷が敷設されており、船室内にいた女性や子どもの多くが犠牲となりました。 宮本常一 〜忘れられた日本人〜 終戦まで長年にわたり要塞化され、開発が抑制されていた対馬は、古い民俗や文化の宝庫でした。朝鮮戦争が始まった1950年、民俗学者・宮本常一らの八学会連合(翌年から九学会連合)による対馬総合調査が行われ、宮本は対馬全島を歩き、古老の話を聞き、古文書を書き写し、写真を撮影しました。 昭和20〜30年代 〜サバ漁・イカ漁・パルプ景気〜
昭和20年〜30年代は、戦後の対馬がもっとも賑わった時代でもありました。対馬近海は西日本屈指の漁場であり、瀬戸内海などからも大量の漁船がやってきました。厳原には銭湯がいくつも営業し、飲み屋が軒を連ね、博多税関が持て余していた高価な舶来タバコが数時間で売り切れたといいます。 そして現在 〜自然・歴史・国際交流・観光の島として〜基幹産業である漁業の不振と公共事業の削減という厳しい情勢のなか、ようやく対馬でも「開発か自然・歴史保護か」という二者択一ではなく、対馬の自然・歴史を活かした地域振興が模索されるようになりました。江戸時代の朝鮮通信使行列の再現をメインとする対馬アリラン祭の開催や、対馬の中央に広がる浅茅湾でのシーカヤック体験ツアーなどが人気を集めています。また、韓国からの観光客が増える一方、習慣やマナーの違いによる行き違いも多く、お互いを理解するための真の国際交流の必要性が高まっています。
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