対馬戦史 幕末〜現代
みどころ 国境の島対馬は、現代に至るまで国防の最前線でもあり、特に明治期から第2次大戦期までは営々と要塞が築かれ、対馬自体が海上の大要塞とも称されました。幕末から現代に至るまでの軍事拠点としての対馬を体験できるコースです。
コース 半井桃水館〜竹敷〜上見坂公園〜大船越〜万関橋〜海栗島〜豊砲台〜殿崎〜茂木浜〜姫神山要塞(〜芋崎)
コース図(PDF形式183KB)
半井桃水館(なからいとうすいかん) 半井桃水は明治期の新聞記者・小説家。対馬出身で、樋口一葉の師、思慕の対象として知られています。日露戦争時、従軍記者として戦地の情報を伝え、活躍しました。桃水の出身地である厳原町中村地区は現在も城下町の風情を残し、生家跡はコミュニティ施設「半井桃水館」となっています。 >>半井桃水館ホームページ
竹敷 〜海軍基地〜 1886年(明治19年)、浅茅湾南部の竹敷港に水雷施設部が設置され、海軍艦艇が出入りするようになりました。日清戦争勝利後、基地としての重要性が高まり要港部に昇格。日露戦争では水雷艇の出撃基地として活躍し、日本の命運をかけた戦争の勝利に大きく貢献しました。写真は、竹敷のもみじを詠った万葉の歌碑。
上見坂公園 標高385mに位置する上見坂展望台からは、日本の代表的溺れ谷・浅茅湾が箱庭のように眼下に広がります。遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。
大船越(松村安五郎と吉野数之助の碑) 文久元年(1861年)2月、ロシア軍艦ポサドニック号が浅茅湾に来航し、滞留すること半年。その間、家畜を略奪し、井戸を掘るなど長期滞在の構えを見せたため、幕府を巻き込んだ大騒動になりました。最終的にはイギリスの力を借りてロシア艦の退去させたものの、大船越の瀬戸を強引に通過しようとしたロシア兵との争いにより、松村安五郎が銃撃され死亡、吉野数之助が捕虜になり、その恥辱に耐えかねて死亡するという事件が発生しました。2人はのちに戦没者として靖国神社に合祀され、大船越に碑が建立されました。
万関橋 明治33年、南下政策をとるロシアとの戦争の機運が高まり、日本海軍は艦船の通り道として万関瀬戸を開削しました。日露戦争の勝利に貢献したこの開削事業は軍事機密であり、現在もほとんど資料が残されていないとか。
海栗島(うにじま) 対馬北端の鰐浦沖の海栗島(うにじま)は、巨大なレーダーを備えた自衛隊の基地となっています。ヘリポートがあり、自衛隊員が常駐していますが、民間人は居住しておらず、北方を睨む国防の最前線となっています。
豊砲台 昭和4年起工、昭和9年に竣工した豊砲台は鉄筋コンクリート製。長さ18.5メートルの40センチ加農砲が2門装備され、爆撃に耐えられるようコンクリート壁の厚みは2メートル以上。名実ともに世界最大の巨砲でしたが、実戦では一度も砲弾を発射することはなく、昭和20年10月、米軍の爆破班により解体されました。
殿崎 明治38年(1905)5月、日本の興廃をかけた日本海海戦が対馬沖で繰り広げられ、撃沈されたロシア・バルチック艦隊の水兵143名がこの地に上陸しました。農婦たちはこの敗残兵を水の湧き出す泉へ案内し、民家へ分宿させるなど手厚くもてなしました。祖国を応援しつつも、哀れな敗残兵を助けたのは、島人の素朴な心性の発露だったのでしょう。
茂木浜 上対馬町茂木浜には、日露戦争で海に沈んだロシア艦・ナヒモフ号の大砲が、記念碑とともに設置されています。1980年に海中より引き上げられました。
姫神山要塞 明治33(1900)年、南下政策をとるロシアに対抗するべく、モルタルと赤煉瓦をつかったイギリス風の要塞が姫神山に築造されました。現在は訪れる人も少なく、森の奥で静かな眠りについています。
芋崎 幕末、ロシア軍艦ポサドニック号が一時占拠した場所。ロシア兵が掘った井戸が今も残されており、「文久元年露寇之碑」の石碑が建てられています。陸行は難路ですが、シーカヤックなどで行くことができます。
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