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青潮の里

厳原町南東部、尾浦地区にある自然豊かなキャンプ場と海水浴場です。併設しているため、1日中楽しむことができます。
キャンプ場にはバンガローが3棟、貸出し用テントを備えているほか、テントサイト、運動広場、炊事棟などがあります。
また夏季期間は管理棟に管理人を配し、運営に当たっています。
澄みきった海が広がる海水浴場はゴロタ浜で、マリンレジャーのポイントとして夏休みには町内外からの多くのファミリーで賑わいます。
子供から大人まで大人気のスポットです。

漁火(いさりび)公園

見渡す限り空と海が広がる高台のパノラマ公園です。
昼の爽快ビューはもちろん、夜にはまた違った楽しみが待っています。それは対馬名物の漁火です。
漆黒の海にきらめく漁火はロマンチック!
4~11月なら無料足湯「対馬海峡漁り火の湯」に浸かりながらうっとり楽しむことができます。
ここは“ひと休み”感覚で立ち寄ることができる人気の足湯でもあり、市民のふれあいスポットです。

※足湯は4月~11月の期間限定です。

龍良山(たてらやま)原始林

厳原町南部に位置し、標高558mの龍良山の麓に広がる原始林です。
天道信仰の神体山として全山が神地されてきたため、千古斧が入ることがなく、極めて自然度の高い照葉樹林として、国の天然記念物に指定されています。森の平均樹齢は200年で、スダジイ・イスノキなどが他の地域では見ることのできない巨大な姿を見せています。
樹、樫、椎、イス等の暖帯系広葉樹が主で、対馬を代表する暖帯林として貴重な存在です。

多久頭魂(たくずだま)神社

「延喜式」神名帳に下県郡の名神として「多久頭神社」とあり、現在の豆酘・多久頭魂神社に比定されています。
この「多久頭魂神社」は、古来より「天道信仰」の本拠とされてきました。
平安中期以降、神仏習合により「豆酘御寺」と称しましたが、明治の神仏分離令により「多久頭魂神社」を復し、現在地に鎮座しましたが、社殿は旧観音堂を使用しています。
「観音堂大蔵経:県指定有形文化財」
境内の経蔵には、高麗版の大蔵経があり、韓国の伽耶山南印寺にある木版と合致します。
「金鼓・梵鐘:国指定重要文化財」
高麗時代の金鼓がありますが、韓国にも例のない大作です。
社前の鐘楼に懸かっている梵鐘は、寛弘5年(1008)初鋳、以後二度の改鋳が行われ、それに対馬の古族阿比留氏の名が見えます。

美女塚公園

厳原町豆酘(つつ)地区の「美女塚伝説」を伝える石碑が建てられています。
『昔、豆酘に鶴王という美しい娘が住んでいました。
賢く親孝行な彼女は、あるとき采女として都へ召喚されることになりました。
年老いた母を残していく悲しみに耐えられず、都へ上る日、この場所で自らの命を絶ちました。
「美しく生まれたために、二人は哀しみにあうのなら、これからは、この里に美女が生まれませんように・・・」
このような言葉を残して世を去りました。』
采女というのは、古代天皇の宮廷に、地方豪族の娘が出仕したものです。
制度として確立したのは大化改新の時ですが、それ以前から慣行としてあったようです。

清水山城跡

厳原八幡宮の背後に控える清水山城跡は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の年である天正19年(1591)に構築したといわれています。
肥前の名護屋、壱岐の勝本、上対馬の撃方山を結ぶ兵站線の駅城で独立状の丘陵清水山は馬背状を呈し、丘陵線上に、本丸、二の丸、三の丸と地形に即して階段状に営んでいます。
規模はさほど大きくありませんが、歴史的には文禄慶長の役の遺跡、構造上からは遣禄頃の城跡、また、三郭には虎口の桝形の遺構が極めてよく残っているなど、国指定記念物でもあり、史跡としての価値が高いです。

小茂田浜神社

文永11年(1274)10月5日、900艘の艦船に分乗した3万人の元・高麗連合軍が佐須浦に襲来しました。
守護代宗資国以下主従80騎で防戦に努めましたが、遂に全員が討ち死にしました。
小茂田浜神社には、資国以下、戦死した将士の霊を祀っています。
「軍大明神」と号し、初めは資国公戦死の地に村人が小祀を建てていましたが、南北朝の頃、宗経茂が現在地に遷し、神領を寄進して宗家の祭祀としました。
大祭は毎年11月第2日曜に行われます。
鎧武者を先頭にした「武者行列」が浜まで歩き、御旅所で神事と弓射りが行われ、海に向かって武士大将が「エイエイ」と采配を振るえば太鼓と武士が「オーオー」と呼応します。

対馬藩お船江跡

久田浦に注ぐ久田川の河口に、人口の入江が構築され、内部に四つの突堤と五つの船渠が設けられました。これを「お船江」あるいは「お船屋」と称しています。(現在は五つの内一つの船渠は埋め立てられています)
満潮時には木造の大船が出入できる程の広さと深さがあり、干潮時には干上がるように出来ています。現在の遺構は寛文3年(1663)に造られました。築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っており、往時の壮大な規模を窺うことが出来ます。江戸時代、海に面した各藩はその藩船を格納するお船屋を設けていましたが、現在これほど原形を保存している所は全国に無いといいます。県指定史跡にも指定されています。

金石城跡

享禄元年(1528)の内乱で、「池の屋形」は炎上消失しました。脱出した宗将盛は国分寺に避難し、国分寺の東側は空いていたので、そこに新しい屋形を築きました。それが「金石屋形」です。
寛文5年(1665)、義真は国分寺を日吉に移転し、金石屋形を拡張しました。城郭を整備し、大手門に櫓を建て、多門櫓を造ったのが同9年で、これより「金石城」あるいは「府城」ともいいますが、天守閣は造りませんでした。
今運動公園の地に残る城壁、城門の跡、庭園の池などは、さすがに往年の偉容を偲ばせます。大手の櫓門は大正8年(1919)まで残っていましたが、京都かどこかの寺院に売却されたといいます。
現在のものは平成2年に再建されたものです。