歴史・文化

目次

日本の外交史の縮図

古代

浅茅湾(あそうわん)

島全体が岩がちであり、耕地が乏しいという地理的条件のため、古代より九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通に活路を見出してきました。対馬最古の越高(こしたか)遺跡(紀元前6800年頃)からは九州と朝鮮半島の遺物が同時に出土し、当時から九州と朝鮮半島の間で人と物の交流・交易があったことを示しています。

日本誕生

西の漕手(にしのこいで)[対馬市美津島町小船越]

古代より続く人の流れと、大陸文化を摂取するための使節の派遣などにより、金属器・漢字・仏教・政治制度などさまざまな大陸文化が対馬・壱岐を経由して日本に流れこみました。対馬・壱岐はいわば、日本が誕生する際の「へその緒」としての役割を果たしました。

国家間の緊張

古代山城・金田城(かねだじょう・かなたのき)[対馬市美津島町黒瀬]

7世紀の白村江の戦いによりほぼ国境が確定し、日本・新羅・唐という国家が成立したことにより、「国境の島」は常に国家間の緊張関係の最前線にさらされることになりました。その一方で、鎌倉時代から江戸幕末まで宗家(そうけ)が対馬を統治し、また戦国時代から現代まで戦場にならなかったため、全島に豊富な歴史・民俗資料が温存されており、日本や朝鮮半島の歴史を知る巨大なタイムカプセル・データベースとなっています。
余談ですが、2019年放送のNHK「あなたも絶対行きたくなる!日本『最強の城』スペシャル」第4弾にて、歴史的価値や絶景が認められ、金田城が最強の城に選出されました。

朝鮮外交の拠点

対馬藩主宗家菩提寺・万松院(ばんしょういん)[対馬市厳原町西里]

江戸時代を通じて対馬藩は幕府から対朝鮮外交を一任され、朝鮮半島に10万坪(長崎出島の25倍)の外交通商施設「倭館」(わかん)を運営し、対馬藩士400~500人が滞在していました。また、朝鮮王朝から江戸幕府に派遣される国家使節団「朝鮮通信使」の接遇・先導・護衛を務めるなど、独自の外交機能を発揮しました。

戦争と平和

日露戦争の最終局面、日本海海戦(Battle of Tsushima)では、対馬沖で日本帝国海軍とロシアバルチック艦隊の間で激しい戦闘が繰り広げられました。海戦は日本の一方的な勝利に終わり、ロシアの被害は甚大で、対馬に流れ着いた敗残兵も多かったのですが、島民の手厚い看護により健康を回復し、やがて帰国しました。その後も、第2次大戦、朝鮮戦争など大きな戦争が起きるたびに、対馬は大きな影響を受け続けてきました。