国境の島・対馬の歴史を紐解く

目次

国境の島・対馬

日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点でした。
特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えていました。
その後、中継地の役割は希薄になりましたが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺えます。
国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国民と民の深い絆が感じられる稀有な地域なのです。

※2015年4月24日(金)、歴史的建造物や伝統芸能などの有形、無形の文化財をテーマや地域ごとに物語る、文化庁認定の「日本遺産」の第1弾(18件)に、「国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~」(対馬・壱岐・五島・新上五島)が認定されました。

時代別にみる対馬の深い歴史

1)弥生時代

魏志倭人伝

対馬に関する既述が最初に登場する文献は、弥生時代末期(3世紀)に編纂された中国の歴史書「魏志倭人伝」です。倭人伝において、対馬は最初に登場する倭国(日本)のクニであり、その描写は簡潔ながら現在の対馬の姿にも通じる名文として知られています。

「始めて一海を度(わた)る千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の小径(こみち)の如し。千余戸あり。良田なく、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴(してき)す。」

訳:断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島と日本本土を往来して交易を行っている。

和多都美神社

魏志倭人伝の描写どおり、弥生時代の対馬の海洋民は島の中央に広がる波穏やかな良港・浅茅湾を利用しつつ、航海術を駆使し小舟で大陸を往来していました。時に荒れ狂う対馬海峡の航海は危険に満ちていたため、この時代、対馬には多くの海神信仰が定着したのです。

和多都美神社には、そんな海の女神・豊玉姫が祭られており、古くから龍宮伝説が残されています。裏参道を奥に進むと神聖な空気漂う中にその墳墓とされる磐座があります。

当時の豊玉姫への深い信仰によって守られた対馬の港と海洋民は、金属器・文字などさまざまな大陸文化を日本へ伝えました。日本と大陸をつなぐ重要な役割を果たしていた対馬、そして豊かな浅茅湾がなければ、仏教の教えさえも今の日本に広がっていなかったかもしれません。

2)飛鳥時代

金田城跡

古代の対馬に緊張状態をもたらしたのが、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦い。当時の朝鮮半島には高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)・百済(くだら)の三国が分立していましたが、唐・新羅の連合軍により日本と同盟関係にあった百済が滅ぼされ、百済再興のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗してしまいます。大和朝廷は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされ、防衛のためにのろし台や防人(さきもり)が配置され、城が築かれました。美津島町箕形の金田城(かねだじょう、かねたのき。667年)には日本最古級の朝鮮式山城の遺構がよく残っており、国の特別史跡に指定されています。

現在、金田城には登山道が整備され、山頂からは古代の防人たちも見たであろう朝鮮半島方面の水平線を臨むことができ、歴史のロマンに思いを馳せることができるトレッキングコースとして人気です。
(写真:美津島町金田城一ノ吉戸の城壁)

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3)鎌倉時代

小茂田浜神社

1274年の文永の役では、元寇軍3万3000(蒙古2万5000・高麗8000)のうち約千騎が小茂田浜(こもだはま)に上陸、それを迎え撃った資国以下80余騎が激戦の果てに全滅しました。68歳であった資国はのちに軍神として祀られ、毎年11月に行われる小茂田浜神社大祭には、宗氏と家臣の子孫たちが甲冑に身を固めて参加し、海に向かって弓を鳴らす鳴弦の儀式が行われます。

元寇では、日本は「神風」により侵略を免れたと言われますが、対馬・壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。元寇への復讐の意味もあり、倭寇が盛んに朝鮮半島・中国大陸で略奪・人さらいを行うようになっていきます。高麗は倭寇の被害が原因のひとつとなって滅亡、倭寇討伐で名をあげた李成桂が李氏朝鮮を建国します。
 李氏朝鮮は「倭寇の巣窟」とされた対馬を襲撃(1419年応永の外寇)しますが、宗家のゲリラ戦により苦戦し、貿易の権限を対馬の有力者に与える懐柔策をとります。こうして、対馬と朝鮮の関係は、元寇・倭寇の争いの時代から、平和通行の時代へと変化していきました。その平和な関係は、三浦の乱(朝鮮の日本人居留民の暴動)などの紆余曲折を経て、豊臣秀吉の朝鮮出兵まで続くこととなります。

4)安土桃山時代

清水山城跡

清水山城(しみずやまじょう)は、朝鮮出兵(文禄慶長の役)に際し、豊臣秀吉の御座所として1591(天正19)年に築かれました。清水山城は、出兵の一大拠点であった肥前名護屋城(佐賀県唐津市)から壱岐・勝本城、朝鮮半島・釜山につながる重要な軍事的中継点でした。

標高210mの清水山の尾根沿いに、東西約500mにわたって一ノ丸(本丸)・二ノ丸・三ノ丸の三段の曲輪(くるわ。石垣などで区画された平坦面)が並び、斜面を這う石垣により結ばれています。各曲輪から厳原(いづはら)の町並みや厳原港を一望できる総石垣の山城です。
築城者は明確な記録がなく、軍監・毛利高政と推測されてきましたが、対馬領主(のちの対馬藩主)宗 義智(そう よしとし)に、肥後人吉の相良氏、筑後三池の高橋氏、筑後福島の筑紫氏の三大名が協力したと考えられています。
天正期の山城の遺構を良好に残しており、昭和59年、国史跡に指定されました。

5)江戸時代

万松院

宗家宗義智(そう よしとし)は、豊臣秀吉による朝鮮出兵と、徳川家康による和平交渉という最も困難な時代に生きた島主でした。天下統一を果たした秀吉が次に目指したのが大国・明の支配であり、宗義智や小西行長の反対を押し切り、朝鮮半島への出兵(文禄・慶長の役)が計画されます。先導役を命じられた義智は、義父でもある行長の密命を受け、水面下でさまざまな和平交渉を行ったと言われています。日本軍は一時は漢城(ソウル)・平壌(ピョンヤン)を陥れますが、李舜臣率いる朝鮮水軍に補給路を絶たれ、また明国の援軍と朝鮮義勇兵の抵抗に遭い、秀吉の病死によって撤退を余儀なくされます。

日本軍の残虐行為は朝鮮民衆に深い恨みの感情を抱かせ、西日本の諸大名を疲弊させました。朝鮮に兵を送らなかった家康は着実に力を蓄え、関ヶ原の戦いを制して天下人となります。関ヶ原の戦いにおいて、義智は義父の行長とともに西軍(三成方)に味方しますが、小西行長は敗戦後に処刑、義智の妻であった行長の娘マリアは離縁され、長崎で一生を終えたと言われています。義智は、家康によってお咎め無しとされ、断絶していた朝鮮との関係修復を命じられます。李氏朝鮮は強硬に拒絶しますが、北方で勢力を拡大していた女真族への防備の必要もあり、家康から先に国書を通じること等を条件に通信使の派遣を承諾し、1607年に最初の通信使(回答兼刷還使)が派遣されます。

秀吉の朝鮮出兵、妻との離縁、戦後の和平交渉など苦難に満ちた人生を送った宗義智は、江戸幕藩体制においてその功績を認められ、初代対馬藩主として元和元年(1615年)、その波乱に満ちた生涯を終えました。

父・義智の苦労を偲んだ宗義成によって菩提寺が建立され、義智の法号から万松院と名付けられました。義智の妻マリアはキリシタンでしたが、厳原町の八幡神社の末社である今宮若宮神社に祀られています。

6)明治時代

幕末の文久元年(1861年)、対馬の中央に広がる浅茅湾の芋崎を、ロシアの軍艦ポサドニック号が占拠するという事件が起きました。艦長ビリリョフは対馬藩の抗議を無視し、測量を行い、大船越瀬戸で番兵を射殺するといった暴挙にでました。
さらに、兵舎を建築するなど長期滞在の構えを見せたため、幕府は外国奉行・小栗忠順を派遣するも交渉は難航。占拠から半年後、イギリス軍艦の圧力によりロシア軍艦は対馬から撤退しました。
時は帝国主義の時代。南下政策をとるロシアは、不凍港を求めて浅茅湾の占拠を目論み、一方のイギリスもまた、ロシアが撤退しなければ対馬を自ら占拠する計画だったといわれています。
その後もロシアは露骨な南下政策を続け、日清戦争後の三国干渉を経て、日本とロシアの戦争は避けられない状況となり、軍事上の要衝であった対馬は浅茅湾を中心に要塞化されていきました。
日露戦争の日本海海戦において、東郷平八郎率いる連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を一方的に撃破、日露戦争の勝利を決定的なものにします。対馬沖・日本海を主戦場としたこの海戦は、日本以外では一般的に「対馬海戦」(Battle of Tsushima)と呼ばれています。

上見坂堡塁

上見坂堡塁は、明治34年から35年にかけて、厳原町内陸部に築造された堡塁(ほうるい。防御型陣地)です。戦後に上見坂公園として整備され、駐車場、トイレ、芝生広場、歌碑などが設置され、展望所からはリアス式海岸・浅茅湾(あそうわん)や霊峰・白嶽(しらたけ)を一望できます。背面には砲台の遺構を良好に残しています。

上見坂は古くから島の東西を結ぶ交通拠点・軍事拠点であり、小茂田浜(こもだはま。厳原町西海岸にあり、元寇の古戦場でもある)からのロシア兵の上陸を想定し、東部の厳原中心部や、美津島町鶏知の対馬要塞指令部、根緒砲台の背部などを守ることを目的としています。沿岸砲台に設置された28センチ榴弾砲ではなく、小型の9センチ加農(カノン)砲を2門×2基の計4門が配備されました。

姫神山砲台

姫神山砲台は、明治33年から34年にかけて、対馬海峡(東水道)に突き出した美津島町緒方に築造されました。遺構の残存状況がよく、右翼・左翼の観測所からは、壱岐方向の水平線やリアス式海岸・浅茅湾などを一望できます。

国道382号線上の緒方入口から少し北上すると、日露戦争に備え、軍が人工的に開削した万関瀬戸(久須保水道)があります。姫神山砲台は、敵艦がこの万関運河を通って、海軍の拠点であった浅茅湾へ侵入することを阻止するため設置されました。28センチ榴弾(りゅうだん)砲が2門×3基の計6門配備され、対馬の明治期を代表する、典型的かつ最大規模の砲台跡です。

豊砲台

第一次大戦後、激しい軍拡競争による財政負担に苦しむ英米日などの主要国は、ワシントン海軍軍縮条約(1921年)を締結し、旧式戦艦および未完成艦の廃棄を決定しました。その結果、余剰となった艦砲は東京湾・対馬・壱岐・鎮海などの重要海域の要塞砲に転用されることになります。
豊砲台には、日本海・対馬海峡・朝鮮海峡の制海権を確実なものにするため、同条約により航空母艦に改造されることになった軍艦「赤城」の40.6cm加農(キャノン)砲一基2門が移設されたと言われています。(土佐あるいは長門説もあります)。

昭和4(1929)年5月に起工、昭和9(1934)年3月に付帯設備をふくむすべての工事が完了し、砲身長18.5m、砲身重量108トン、実用射程距離は30.3kmという、世界最大級の巨砲が出現しました。
 第2次世界大戦終結後の昭和20年10月、米軍の爆破班により武装解除されましたが、鉄筋コンクリートの厚みは2m(砲塔部は3m)にもおよんで完全には爆破・解体できず、当時の姿をいまに留めています。巨大な砲身は解体されて八幡製鉄所で溶かされ、戦後復興の資材になったとされています。

※砲台入口前に乗用車数台が駐車できます。砲台入口に、無料で利用できる照明スイッチがあります。
※16インチ=40.6cm。のちの戦艦大和に搭載された主砲は18インチ=46cm。

対馬の歴史をもっと知りたい方へ

局長Nのマニアック部屋(エヌの世界)

https://www.kacchell-tsushima.net/

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