観光・自然・歴史

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清水山城跡

厳原八幡宮の背後に控える清水山城跡は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の年である天正19年(1591)に構築したといわれています。
肥前の名護屋、壱岐の勝本、上対馬の撃方山を結ぶ兵站線の駅城で独立状の丘陵清水山は馬背状を呈し、丘陵線上に、本丸、二の丸、三の丸と地形に即して階段状に営んでいます。
規模はさほど大きくありませんが、歴史的には文禄慶長の役の遺跡、構造上からは遣禄頃の城跡、また、三郭には虎口の桝形の遺構が極めてよく残っているなど、国指定記念物でもあり、史跡としての価値が高いです。

日本海海戦記念碑[殿崎公園]

1905年(明治38年)5月27~28日。日露戦争末期の日本海海戦にて、日本の連合艦隊はロシアのバルチック艦隊を殲滅しました。
この対馬沖で繰り広げられた日本海海戦を記念して地区住人により建立された記念碑です。
この海戦の際、撃沈されたロシアバルチック艦隊のウラジミル・モノマフ号の水兵143名は、4隻のボートに分乗し、この地に上陸しました。
戦況を見守る傍ら農作業をしていた農婦は、命からがら逃げ延びてきたこの水兵達を水の湧き出す泉へ案内し、夜は西泊の民家へ分宿させるなど、手厚く持てなしたといいます。
題字の恩海義喬(めぐみのうみ、ぎはたかし)は、この話を聞き、心を動かされた東郷平八郎連合艦隊司令長官の書によるものです。
また記念碑の題字も東郷平八郎連合艦隊指令長官の親筆で、「恩海義僑」と書かれています。
(「戦争で死の海となった対馬の海が恩愛の海となった。対馬の人たちの義は気高いものだ」という意味を表しています。)

上見坂(かみざか)公園[上見坂堡塁]

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。
展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。
遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。
家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめき、ファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。
口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

小茂田浜神社

文永11年(1274)10月5日、900艘の艦船に分乗した3万人の元・高麗連合軍が佐須浦に襲来しました。
守護代宗資国以下主従80騎で防戦に努めましたが、遂に全員が討ち死にしました。
小茂田浜神社には、資国以下、戦死した将士の霊を祀っています。
「軍大明神」と号し、初めは資国公戦死の地に村人が小祀を建てていましたが、南北朝の頃、宗経茂が現在地に遷し、神領を寄進して宗家の祭祀としました。
大祭は毎年11月第2日曜に行われます。
鎧武者を先頭にした「武者行列」が浜まで歩き、御旅所で神事と弓射りが行われ、海に向かって武士大将が「エイエイ」と采配を振るえば太鼓と武士が「オーオー」と呼応します。

万関橋

浅茅湾と三浦湾の間に開削された万関瀬戸と呼ばれる運河に架かる橋が万関橋です。この橋は平成8年に架け替えられ、3代目にあたります。明治後期、南下政策をとるロシアとの戦争の機運が高まり、日本海軍は水雷艇を対馬海峡東水道に出撃させるため、明治34年(1901年)、久須保水道(万関瀬戸)を開削しました。
この万関橋は、その開削された瀬戸に架かり、対馬の上下島を結んでいます。

対馬藩お船江跡

久田浦に注ぐ久田川の河口に、人口の入江が構築され、内部に四つの突堤と五つの船渠が設けられました。これを「お船江」あるいは「お船屋」と称しています。(現在は五つの内一つの船渠は埋め立てられています)
満潮時には木造の大船が出入できる程の広さと深さがあり、干潮時には干上がるように出来ています。現在の遺構は寛文3年(1663)に造られました。築堤の石積みは当時の原形を保ち、正門、倉庫、休息の建物跡が残っており、往時の壮大な規模を窺うことが出来ます。江戸時代、海に面した各藩はその藩船を格納するお船屋を設けていましたが、現在これほど原形を保存している所は全国に無いといいます。県指定史跡にも指定されています。

海神神社

海神神社は、古くは神功皇后の旗八流を納めた地として八幡本宮と号し、対馬本宮と号し、対国一ノ宮と称されました。明治4年には海神神社と改称され、国弊中社に列せられた由緒ある神社です。周辺の木坂山(伊豆山)は千古斧を入れない原生林で、「野鳥の森」となっています。また本殿前を通る「木坂野鳥の森」遊歩道があり、野鳥を見ながら散策することもできます。

金石城跡

享禄元年(1528)の内乱で、「池の屋形」は炎上消失しました。脱出した宗将盛は国分寺に避難し、国分寺の東側は空いていたので、そこに新しい屋形を築きました。それが「金石屋形」です。
寛文5年(1665)、義真は国分寺を日吉に移転し、金石屋形を拡張しました。城郭を整備し、大手門に櫓を建て、多門櫓を造ったのが同9年で、これより「金石城」あるいは「府城」ともいいますが、天守閣は造りませんでした。
今運動公園の地に残る城壁、城門の跡、庭園の池などは、さすがに往年の偉容を偲ばせます。大手の櫓門は大正8年(1919)まで残っていましたが、京都かどこかの寺院に売却されたといいます。
現在のものは平成2年に再建されたものです。

椎根の石屋根倉庫群

板石をもって屋根を葺く習俗がいつ頃から始まったのかは、明白ではありませんが、瓦より堅固な石材が容易に得られる地方では、古くからあったと考えられます。
現在椎根で見られるような整形した石は格別で、この厚い砂岩の板石は浅海の島山から運んだと言われています。
この石屋根はどこも小屋と呼ばれる倉が主で、人家には使用せず、衣類の櫃と穀類の俵等が格納されていたそうです。
対馬の集落の佇まいは、人家の火災等から小屋だけは残るように配慮され、人家と小屋は離して建てられています。
椎根はそれが特によく分かり、人家は両側の山際に一列に並び、中央を流れる川の両岸に小屋が群をなしています。